スニーカー文化論 / 川村由仁夜

スニーカー文化論

スニーカーマニアの間には、「限定版スニーカー入手→仲間からの絶対的な尊敬→社会的ステータスとパワー」という図式がある。

これまでのファッションは、階層や性別で定義されていたが、現在のファッションは個々のアイデンティティでされる。そのため人々はその抽象的なアイデンティティというものを、受動的に能動的にも探し求めている。
そして、服や靴などのファッションは、各自のアイデンティティを形成するための必需品だ。

インターネットのオークションサイトでは、簡単には手に入らない復刻モデルの価格がつり上がり、最終的に数千ドル(数十万円)で落札されることも珍しくない。
マニアたちは、購入する気がなくても、「ネットでの入札価格が上がっていくのを見ているだけでも楽しい。いくらで落札されるのか最後まで見届けたくなる」という。観察することが、1つのエンターテインメントになっている。今はネット中毒がほとんど常識の時代だ。


アメリカの社会学者ディック・ヘブディジは、
「サブカルチャーにおいては、スタイルが非常に重要な意味を持つ。『普通」というプロセスから脱線しながら、社会的規範や秩序というものを外見から壊していくのだ。つまりは主流のイデオロギーが何かを明確に認識しているということだ。サブカルチャー内部の規則は、外部の人間には意味不明、無礼、幼稚に見えるかもしれないが、それは明らかにメインストリームの価値観などに対する挑戦なのだ」と説明している。

スニーカーファンの多くがスポーツファンであるのは間違いない。

「80年代半ばのエアジョーダンの発売が、スニーカー文化のターニングポイントだ」と業界関係者は声を揃える。それまでアンダーグラウンド的に存在していたスニーカー文化が公のものになり、一般にも知れ渡るようになった。

人間は尊敬する人間、好きな人間、憧れる人間の真似を常にする。少しでも自分に取り入れたい要素を持っている相手のものを自分のものにしようとする。それはファッションや服装だけでなく、その人の態度、経歴、言葉遣い、しぐさ、行動など、すべてだ。その際に、手っ取り早い方法が、その人の持ち物を手に入れることだ。イギリスの社会学者ハーバード・スペンサーは、特に崇拝する相手を真似する場合を「レヴェレンシャル・イミテーション」と呼んでいる。一方、競争相手に対抗する目的で真似する場合を「コンペティティブ・イミテーション」と説明している。相手に対して敵対心がある場合も、真似や模倣という行動に出ることがあるからだ。ファッションという概念とファッションを現象として見た時のそのプロセスを理解する基本となる。

スニーカーマニアは、お互いにゲームをしながら競っている意識が高く、男性が主流を占めているサブカルチャーだ。自分が直接、戦場に出ない場合は、間接的に、戦う。勝ち、負け、白黒の結果がすぐ出る分野がスポーツだ。見ている観客は単なる傍観者ではなく、心情的には選手と一体となって戦っている。選手が身につけているもの、ユニフォーム,スニーカー、ソックス、小物を自分たちも身につけることで、一緒にプレーしている心理になるのだ。自分が応援しているチームや選手が勝てば、我がことのように喜び、興奮ふる。勝利ににこだわるのは、勝利に伴う社会的恩恵を被ることができる一方、敗者になれば、それらを手に入れることができないからだ。この人間の心理をマーケティング戦略として、巧みにコントロールしているのがスニーカーメーカーというわけだ。

ライフスタイルとは、行動や生活様式を指す言葉だが、中でも服装はその人の趣味趣向だけでなく、人生哲学をも表す手段の一つだ。

「ヒップホップ文化を語らずしてスニーカーのことを語るのは難しい」とニューヨークのスニーカーマニアたちは力説する。

パリやミラノなどヨーロッパの街は歴史と伝統がある絵画や芸術作品が好まれる一方、ニューヨークはその伝統を覆すアバンギャルドなアートが好まれる街だ。自由思考が高く、あらゆるものや人の新しい価値観を認める空気感がある。

最も有名な研究がフランスの社会学者ピエール・ブルデューによる「ディスタンクシオン」だ。それまでは、「趣味」は個人の選択だとする考え方が主流だったが、実は自分の属する家庭環境や社会階層によって、形成されるという説だ。そして、かつてハイカルチャーを維持するために、人々は意識的に、ハイとポピュラーの差を区別する努力をした。その線を越えることを歓迎しない集団がいるというのだ。その区別や差別が、アート、ファッションの世界でも存在していた。

境界線が曖昧になったきているのは、他の分野でも見られる。プロとアマチュアの境界線の崩壊。インターネット利用社会段階の数が増加するにつれて、ファッション界でもプロとアマチュアの境界線が曖昧になってきている。
フランスの言語学者フェルディナンド・ソシュールの構造言語主義の理論の枠組みを使ってファッションを分析した。商品はそのものの機能性で定義されるのではなく、モノが存在する全部の環境周辺やコンテクストの一部としてとらえる必要性を唱えている。

スニーカーは、決してハイカルチャーの産物ではなかった。アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンは、ハイカルチャーにおいてのファッションという概念は具体的に次の富を表現するものだからだ。そして、機能性や実用性がないものがファッションだ」。動きにくいものを着用するというのは、つまり、労働に従事する必要のない階層にいるという意味なのだ。その点では、スニーカーはファッションとは無縁だし、ハイカルチャーのものではないはずだ。しかし、高級服をデザインするデザイナーがスニーカーをリリースするようになり、グラフィティアーティストが有名ギャラリーで展覧会を開くようになり、高級ファッションブランドがラッパーとコラボ契約したりするなど、これらの傾向は、まさにこのハイとポピュラーの境目が消えてきている証拠だ。世の中のさまざまなカテゴリー化が難しくなってくると同時に、社会文化の分析も容易にはできない時代になっている。

自分のお気に入りのスニーカーを手に入れた時は、ソーシャルメディアに写真を載せ、互いに自慢し合う。誰が発売されたばかりの限定スニーカーを買ったのか、いくらで買ったのか、このスニーカーを一番格好良く履けるのは誰かといった競争を、彼らは「スニーカーゲーム」と呼んでいる。

スニーカー文化において、ソーシャルメディアの果たす役割が非常に大きいのは先述の通りだが、行き交う情報は、新しいスニーカーのデザインや色、まだリリースされていない発売日、スニーカー関連のイベントや社会活動の宣伝、有名人が履いていたスニーカーなどの情報である。